トウフです。ちょっと暇なので書いてみます。 実は歴史物大好きなんです。今日は花の慶次のおまけ話を。 【大ふへん者のマントの話】 お気に入りの皆さんは花の慶次打った事があるから大ふへん者のマントは知ってますよね。 実際はと言うと…慶次はほんとに使ってました。 1600年、徳川家康は上杉景勝謀反といって戦さを仕掛けます。 前田慶次は一も二も無く上杉軍に加わります。 家康率いる討伐軍と決戦となる時、大坂で石田三成が挙兵します。 家康軍は西上し決戦を避けられた上杉軍は敵対してた山形城の最上義光を攻めます。 この時の慶次の格好が「大ふへん者」と書かれたマントと真紅の大槍(朱槍)です。たいへん目立ちます。 上杉家の者が慶次に文句を言います。 「まだ手柄も立てて無いのに大武辺者とは何事か?」と。 ※武辺者とは?戦さで数多くの手柄を立てたり武功優れた者をこう呼びました。 これを聞いた慶次は笑って答えます。 「これは大武辺者と読むのではなくて、大ふべん者と読むのだ」 「独り慣れない会津の地に来て不便で不便で仕方ないのだ!」と。 上杉軍は義光の城を次々と落とします。 そして長谷堂城と言う城を包囲します。この城が落ちると後は義光のいる山形城だけです。 長谷堂城が落城寸前と言う時、関ヶ原の戦いで西軍が負けたと知らせが入ります。 上杉軍は急いで会津に戻らないと行けません。 退却戦です。負け戦さです。慶次、張り切ります。 退却戦の殿軍は直江兼続が引き受けます。 もちろん慶次も殿軍です。 退却戦は困難を極めます。 伊達正宗から援軍を得た最上義光軍、2万が怒涛のように押し寄せます。 「山城守(直江兼続)を討ちとれ!」 あと一つ峠を越せば会津領という場所で兼続軍は敵に包囲されてしまいます。 もはやこれまでと兼続は討ち死にを覚悟した時、 峠の上から慶次率いる朱槍を持った七人が2万の軍勢に突撃します。 その突撃がどれほど凄まじかったかと言うと、 2万の軍勢が蜘蛛の子を散らすように皆逃げたと。慶次は後に 「あの光景は痛快であった」と語りました。 (実際は伏兵や鉄砲を巧みに使ったんですが) 時間が無くなりましたのでここらでおしまい。好評なら後編を。