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パチンコ

パチンコ年代記(2)

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百連太郎さん

ブロガーランキング:-位
1945年夏

終戦


焦土となった日本は闇市やバラックの乱立
浮浪者や戦災孤児たちの徘徊など
混乱した時代だった



今現在
プロ野球オールスターゲ-ムが行われているが


戦後のプロ野球再開は早く
終戦から3ヶ月後に東西対抗戦が行われた


赤バットの川上、青バットの大下、物干し竿の藤本など

スター選手がいたが


あの

沢村栄治は


もうこの世にはいなかった


戦死しているからだ



戦争で我々は多くのものを失ったのだろう



パチンコはというと


1946年
進駐軍の慰安所のような形で再開されたという記録もあるようだ


当時のパチンコは

盤面全体に釘が均等に打たれたもので

玉の動きは遅く
意外性が少なく面白みに欠けた



そこで

メーカー「正村商会」社長の正村竹一氏が考案したしたのが


「正村ゲ-ジ」


以前少し書いているのだが


田舎の田園風景をモチーフに釘配列を考えたというエピソードを聞いたことがあり………

山があり谷があり………

とか


そう

山や谷のような曲線を配して

右に左に振り分ける「風車」によって


玉の動きが緩急ある面白みのあるものになった


「風車」は
田舎の水車のイメージである

そして

「正村ゲ-ジオール10」「正村ゲ-ジオール15」など 

瞬く間に大人気になる



ちなみに

パチンコは愛知名古屋発祥とか言われるが


パチンコと言えば
ベニア板、ガラス、釘、玉


ベニアは元々名古屋が産地

ガラスは
元々ガラス商だった正村氏が温室栽培盛んな三河浜松の温室用ガラスを入手して
パチンコに利用した


釘や玉は
中京地区に数多くあった軍事工場のベアリングなどからの転用も多かったようだ


話を戻して


正村ゲ-ジは大ヒットしたが

正村氏は特許申請しなかったために数多くの偽物も登場する


だが

みんなが真似をしたからこそ
全国に広まりパチンコ人気が高まったとも言われている



正村氏は

「真似してくれるくらい
いい機械作ったらええやないか」

「仲間うちのことだで
みんなで仲よう使えばええがや」


などとも言っていたらしい



正村氏が
農家に生まれ育ち商人に奉公する中で学んだ心構えを3つ


「物を大切にする」

これはすべてにおいて大事だがパチンコにも通じるだろう

1玉1回転を大切に
台を乱暴に扱わず大切に


「辛抱する」

ただ我慢するのではなく
ひとつの道に入ったら目標や信念を持ち
上手くいかないことがあっても途中で放り出さない


そして

「最後までやり通す」

これはそのまま
最後の最後まであきらめちゃダメ
ってことかな



もうひとこと

「儲からん儲からん言うとるんは
怠けてる証拠や」


パチンコで負けが込んだら

店のせいとか何のせいとか言う前に………


ってことかな


なんか

正村氏の人となりの話がほとんどになってしまったが

パチンコはまだ産声を上げたばかりだ


次回………

いや次回予告とかはないのだが


擬似いくつまでいく?


知らんがな


それではまた
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