ひょっとしたら現代に近づいていくほど話的には面白くないかもな とか思ったりもするのだが 戦国時代の話をずうっとしているほうが楽しい みたいな(笑) というわけではないが 前回まで少し簡略化して書いていることが多いため話がダブる部分もあるが 時を止め いや 少しさかのぼってから細かく書こうと思う 戦前 名古屋でパチンコ台の製造や営業を手がけていた藤井文一という人が 銅貨やメダルではなく玉を入れる 「鋼球式」 玉が払い出される 「スチームボ-ル野球機」 など考えたようなのだが 自分もこの人については何も知らない だが 正村竹一氏が 「現代パチンコ生みの親」なら 藤井文一氏は 「パチンコ玉と元祖パチンコ生みの親」 とでも言っていいのだろうか で その藤井氏が パチンコ制作のためにガラス材料など探し求めていた際に出会ったのが 当時 名古屋でガラス商をしていた 正村竹一氏である 正村氏は 1906年岐阜県の農家生まれで商人に奉公し 21才で名古屋に出てガラス商として独立 そして 温室ガラスの中サイズがちょうどいいであろうということになり 厚さは3mmとか パチンコガラスの基本の規格も決まったようだ その出会いが縁で 正村氏はパチンコ店を開業することとなるのだが 戦争があり名古屋も大きな被害があった しかし 正村氏の店の周りだけ奇跡的に焼け残ったため パチンコ店を再開したら 大人気になったようだ その後 正村氏自らパチンコ制作に取り掛かり そして それが実を結んだ形になったものが 「正村ゲ-ジ」 という名の釘配列のパチンコ台 釘の名称 「天釘」「山釘」「谷釘」「ハカマ」「命釘」とかいろいろあるが それによって生まれ現代まで受け継がれ すべては正村ゲ-ジが現代パチンコの基本形とまで言われた そして 風車が6個ついていた 左右に3個ずつ三角形みたいな配置で 玉の分岐を増やし 釘の並びと通り道により 玉の動きやスピ-ドの変化もつけ さらに 打ち手の技量によっても差が出ることもあったため それが 戦後間もない そんなにいろんな娯楽もまだない時代だからこそ 多くのお客さんが夢中になったのではないのだろうか もし 藤井氏が正村氏と出会わなければ……… もし 正村氏が戦争で店も何もかも失っていたら……… もし 正村氏がそこまでパチンコに情熱をそそぐこともなかったら……… パチンコの玉の分岐のように いくつも分岐点はあったのだろう ひとつ違うほうに玉が流れていたら ひょっとしたら それ以降のパチンコはどうなっていたか わからないのだ ちょっと書き足らないので この続きをあとで