何を得ようと開催したのか? 何を伝えようと参加したのか? これが最大の問題だ By.にみースピア(笑) 意思はわかりません(笑) が、何となく感じるものがあった。 もちろん的外れかもしれない。 が、それは重要じゃない。 少なくともこれから書くようなことを 感じとった人がここにおった。 それだけの話。 だから参加した。 逆に、感じるものが何もなければ、誰の申し出であっても断った。 と思う。 自分なりに 何を求めていたかを考えてみた。 良釘を見たかった? いや違う。 そんなの見ても傷口に塩を塗るだけ。 自分の環境が良くないのに、手の届かないものと比べたところで絶望に近い感情を手にいれるだけ。 悪い釘を見たかった? これも違う。 何の解決にもならない。 そして、こっちも傷の舐め合いはごめん被る。 よそでしてくれ(笑) 良調整の見方を教えてほしかった? これも合ってそうで焦点が違う。 そんなものは主催者には必要ない。 じゃあ何でしょうか? 現実を受け入れようとしなかった。 しかも、全てをどうしようもないことのせいにしてた。 それから時間が経ち、諦めが入ってきた。 そんな自分を見るのが嫌になったのかもしれない。 それだけパチとスロが好きな証拠。 だからこそ、何かのキッカケを求めていたのかもしれない。 そうなると、機種だって何でも良かったと思う。 こだわっているようで、きっとそこは重要じゃない。 だからこっちとしては、載せる釘なんか何でも良かった。 あれを見て、焦点がどこに合ってるかに気づいた人はどれくらいいるだろう 良いとか悪いとか以前の問題 角度を変えただけでどういう風に映ったのだろう? 同じものを見ていて感じ方が違う、見え方が違う。 それは当然であり、必然である。 しかし、そんなことは昔から知っていたハズ こちらもそのつもり だからこそ、せめて自分の見えるものを見せたい。 自分の目に映るものを見せたいと思った。 そのあとの判断はもちろん個々でするもの。 誰かのせい、何かのせいにするのは一番簡単なこと。 そこに他人の言葉は届かない。 届けることができない。 誰かのコメントもサイトも雑誌も、同じことを繰り返し言う しかし結局のところ へぇー ってなるだけ それでは何の意味もない...と思う。 それで読み手の何かが変わらないと意味がないから。 同じことを違う角度から書き直しているだけのものなので、読み手がどこかで何かを感じて、自分の意思で行動を変えるしかないから。 最初から最後まで手助け出来る人ってそうはいない。 一般的にできるのはキッカケ作りまで。 大阪のプロは言った 『現場が一番正しい』 ハマのプロは言った 『実際打ってみてどう思ったん? そう思ったなら、それが正しい』 波のプロは言った 『そこに1%でもオカルトがあれば』(笑) 結局、 実際打っているのは誰? 何を見たん? どう感じたん? そこに疑問はないん? 頭が固くなってないん? ってとこから、1つずつ突き詰めていけば、何かが変わること、変えざるを得ないことがあるのかもしれない。 いや、あるに違いない。 一番重要な問題は それに気づける人は ほんの一握りだと言うこと。 諦めるのは簡単やで