今回は仮定と推論 いきなりだが、何かを説明する際に『○○だと仮定すると□□』という文言が有る。 パチンコ(スロット)に当て嵌めると『私はヒキが弱いから30/kの台を打っても負ける。』 この文章の【仮定】の部分は『ヒキが弱いから』であり、そこに関連付けた結論が『30/kの台を打っても負ける』になる。 この文章に対し、【仮定】の間違いを指摘しても意味は無い。 つまり『ヒキ弱くないじゃん。30/kの台を打てば勝てるよ。』と反論しても無意味。 反論するならば、『30/kの台を打ったらヒキ弱くても勝てるじゃん』という感じで結論に対しての指摘をしなければならない。 何故、【仮定】に関しての指摘が無意味なのか? それは【仮定】・・・ 『仮に定めている』からである。 つまり仮に定めている以上、仮定部分には間違っている可能性を自ら認めているからに他ならない。 だから反論するならば、結論部分から遡り断定していき、仮定を覆す必要が有る。 (帰納法) そして似たような言葉で、【推論】という言葉が有る。 仮定に仮定を重ね理論を展開していくと『推論』という感じになると考えて頂けると解りやすいかもしれない。 パチンコ(スロット)に当て嵌めると、推論形式は以下の様になる。 『アイツ・・・いつも勝ってるな。パチンコ(スロット)なんて、そうそう勝てるもんじゃないから、きっとアイツは店とグルなんだ』 又は、 『パチンコ(スロット)は当たり操作が出来るから、アイツは法則を知っているんだ。だから、いつも勝てるんだ。』 仮定に仮定を重ね結論まで推理したものを『推論』と呼び、仮に定めた事柄を【仮定】と呼ぶのです。 ※例によりココまでは前フリです さてさて、パチンコ(スロット)の話題でオカルト派とかボーダー派とかで意見が別れる事は、よくある話だと思う。 ボーダー派は数学を基に、事柄を断定しながら理論を展開していく形になる。 (仮定→証明→結論) 一方、オカルト派は起こった事実を基に帰納法を使い話を展開していく形になる (事柄→仮定→証明) この議論に関しては『元々、同じ土俵に無い』という事を頭に置いてなければならない。 何故なら、一方は数学的な思考を基に展開する演算方式。 (シュミレーション形式) もう一方は、起こった事実に対する考察や仮説、又は推論。 (帰納法形式) だからである。 簡単に言えばボーダー派は未来を含めた予測。 オカルト派は自らの経験を基に構築された推論。 この話題の結論を言えば、オカルトは決して悪い事ではない。 オカルトもパチンコ(スロット)の醍醐味の1つでもあるし、ボーダー派の完璧を求める癖に確率という曖昧なモノに身を委ねる行為そのものが矛盾していたりするからだ。 そしてなにより、オカルト派である、ボーダー派であるというのは人それぞれの自由。 どちらに属しても良いし、また属さなくても良い。 私個人としては、利益を出す事を目的にパチンコ(スロット)を打ってるので、勝つ為に必要な事はやるし、そうでない事は無視しても構わないと思っていたりする。 (オカルトには拘らないが、自らがオカルト的行動をするのは嫌なだけ) 問題なのは・・・ボーダー理論を展開していくと、オカルト派の帰納法を更に帰納法で返し、ついでに数字や計算を用いて完全なる証拠(根拠)を突きつけて論破しようとして話が決裂してしまう事である。 このやり方だと【オカルト】という言葉が悪にしかならず、『オカルト=悪い事』という図式が完全に形成されてしまうのだ。 人間誰しも、やった事を間違っていると指摘されるのは嫌だろう。 (勝つ為にオカルトは邪魔にしかならないが、それは私が思っているだけで、それを押し付ける権利は無い) 結局、この帰納法を使わずにオカルトを論破するには、結局の所オカルト(推論)に頼らなければならない。 それは【人を観る】という事だ。 理論について、賛同しようが否定しようが好きにすれば良いのだが、否定するならば、否定する側に受け手側の人柄を観る義務が生じると私は思う 【議論】というのは話の展開次第で勝つ為にはとても有用な手段の1つだし、自分自身の成長にも必要な事だとも思う。 だが、それが元で人間関係が悪化したりするのは灯台もと暗しというやつだ。 【議論】は、客観的に人間性を観察(自分を含めて)する事が出来る数少ない貴重な場面でも有るのです。 議論が終わればノーサイド (そりゃ試合か?) そんな議論が出来れば良いですね では