纏めるの大変なので以下抜粋(笑) まず、両者の違いを端的に述べると、次のような表現になるでしょう。 アドラー心理学では 「自分の心は、自分だけのものだ」と示す。対してユング心理学では、「自分の心は、自分のものであると同時に、人類すべてのものだ」 と示すのです。 どういうことでしょうか。 アドラー心理学では 「人の心は『その人だけのもの』 であり、他の何人からも、他のどんな力からも、振り回されたり左右されたり、ましてや蹂躙されたりしない。 過去の経験に縛られることもなければ、周りの人間に心の中へ踏み込まれることも、ない」と述べます。 まさしく「個人の尊厳」というものを、高らかに述べるのです。 アドラーは、自らの心理学を「個人心理学」と呼んでいましたが、じつに的を得たネーミングでしょう。 そしてアドラーは 「だから人の心は、自分の努力次第で、今、自分が『こうなりたい』 と目指せる姿に、きっとなれる」と、強く主張します。人の心の可能性というものを、どこまでも認めます。 アドラーのこの説は 「人の心は、過去に存在した『他者からの影響』によってねじ曲げられたり押しつぶされたりは、しないはずだ」 という結論に行き着きます。 「現在にまで強く影響している過去の心の傷」 を、心理学では「トラウマ(日本語で表現すると『心的外傷』)」と言いますが、アドラー心理学では、この「トラウマ」を完全否定するのです。 対して、ユング心理学は(フロイト心理学と同様)、「トラウマ」の存在を認め、言ってしまえば 「人の心は現在も、過去の経験と密接につながっている」 と考えます。だから人は 「現在の自分ばかりを見るのではなく、過去の自分も見ることで、自分の心の本当の姿が見えてくる」 と、説くのです。 そしてユングは、その考えをさらにダイナミックに、大きなスケールにまで広げました。すなわち 「現在の心に影響を与えている『人の過去』とは、その人個人の過去だけではない。それは『全人類の過去』でもあるのだ。つまり、人の心とは、個人を超えて、過去の全人類、そして現在の全人類の心と、つながっているのだ」 とまで、考えを発展させたのです。 この発想は、「個人心理学」と銘打ったアドラー心理学とは、まったく対照的なものです。 このユングの説では、確かに 「人は、過去に縛られている」 とも言えます。けれど、同時に 「人は、過去と、ともにある。過去とは、今の自分の仲間・共同体なのだ」 という「無限の味方」を得ることにも、つながります。そんな頼もしさを感じさせてくれる考え方です。 そして、この両者の説では、「人間関係」のとらえ方にも、大きな違いを生みます。 アドラー心理学では 「心は自分だけのもの」 ですから、他人には理解できません。 したがって、人同士が解り合うためには 「相手を理解しようとする努力」と「相手に自分を解ってもらおうとする努力」 が、求められます。つまり、互いの思いやり、互いへの「相手の心を大切にする気配り」が、求められるのです。 人間社会は、そうやって「互いを大切にする優しさ」を「意識する」ことで、成立します。 対して、ユング心理学では、そこまで「他人に対する意識」を重視しません。 人の心とは、過去も現在も 「全人類で結び合っているもの・共有しているもの」 なのですから 「他人を解ろう・他人に解らせよう」 としなくとも、ごく自然に解り合えるはずなのです。 それが解らないとしたら、その原因は 「他人が解らないから・・・なのではなく、自分で自分が解っていないから」 なのです。そしてその結果、すれ違いや誤解が生まれ、現実として 「自分で自分を苦しめる」 ことになってしまいます。 つまり 「自分を知れば、他人も知ることができて、人間関係・社会は、すばらしい共同体になれる」 というのが、ユング心理学の教えです。 以下俺(笑) 昔から自分の格言の中に 「過去があるから現在(いま)がある。現在があるから未来がある」 を持ち続けてるんよね。 現在の自分が形成されたのはかこは関係ないのか!?と思うと少なからず「ある!」になった。 これは上記で言う「しがらみ」かもしれないけれどね。 ただそのかこが無ければいまの自分は居ないわけで否定をしたくなはない。 アドラーとユング どちらが正しいかどうではなく突き詰めると袂を分かれるものだ。 自分的には「ユング心理学」寄りに自然と形成されてたなと後から読み知った。 アドラー論も分かるけどね。
記事詳細
日記
ユングとアドラーの違い
46
清木場SHUNさん
ブロガーランキング:73位
↑